ダウンタウン松本人志の逆襲
2年の時を経て、ようやくお笑い界の天才・ダウンタウン松本人志が帰ってくる。しっかりと私も年額会員に入った。なんだったらやり方が分からなかったので、パートナーに登録してもらった。もう予告映像を観るだけで面白いではないか。「プライベートな問題がまだ解けてないので」と、自虐ネタでもう笑いに変えて見せている。それでこそダウンタウン・松本人志である。松ちゃんは全てを笑いに変えてきた。
ずっと私はある言葉を信じて待っていた。その言葉とは、ダウンタウン・浜田雅功と槇原敬之が歌う「チキンライス」の歌詞の中にある「最後は笑いに変えるから」の一節である。
そして予告映像で松ちゃんはもう笑いに変えるパンチラインを解き放っていた。
「このチャンネルはもう金は死ぬほどあるから」
予告映像で観る松ちゃんは2年の時を経ても、何も衰えていなかった。何一つ変わっていなかった。
ダウンタウンがそこにいるだけで、我々、世代は安心できるのだ。もう嫌ではないか。週刊誌で有名人が社会的に抹殺され、名誉挽回できぬままに芸能界から引退していくのを黙ってみているのは、もう飽き飽きではないか。確実に言えることはだ。人の不幸で誰も幸せにならないということだ。
週刊誌も勿論、仕事である。私は全ての週刊誌やマスメディアに対して、敵視している訳ではない。
悪いが私だって、書き手として食べていく為に書いているのだ。刺しに行く時は、ぶち刺しにだっていく。だがそこには、それを超えることの出来ない人間関係が存在するだけだ。
その人間関係の中に、配慮や気遣いがあるのは当然である。なぜならば人間だからだ。それに他でも仕事している身分である。私には私にしか書けない世界で生きている。
それらを考慮したとしても、ダウンタウン・松本人志に対するマスメディアの報道姿勢には、疑問しかなかった。空白の2年を作り出し、賛否両論を巻き起こさせる必要性が本当にあったのだろうか。少しばかり強引過ぎたのではないか。何も報道姿勢だけの問題ではない。それを生み出した世論も同様である。
息苦しい世の中にしているのは、神経質過ぎる世の中にしてしまっているのは、今、生きている人間たちなのである。無闇矢鱈にコンプライアンスだ!コンプライアンスだ!と叫んで、何か世の中が良くなったのか。景気でも良くなったのか。
何も変わらないではないか。むしろ、その反動で生きづらさを感じさせられているだけではないのか。
予告映像で松ちゃんは、飄々としていた。微塵も憐れみなどを感じさせず、笑いに昇華させていた。
松本人志問題として騒ぎ立てた人間たちは、それを観てどう思うのだろうか。悪いが文句だけならば、子供だって言えるぞ。妬みや嫉妬ほど醜いものはないのだぞ。
予告映像を観ただけで、私はずっとダウンタウン・松本人志を応援し続けていて、本当に良かったと感じることが出来た。