「まー!ひどい」と言いながら文句しか言わない記者が先頭に立つ哀れな末路
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喉元過ぎればなんとやらで、オノレが叩かれ大バッシングされたときには、SNSのコメント機能を封鎖させ、歳月流れれば、そのことを忘れたかの如し、先頭に立って歪んだ正義を振り翳せる人間をなんというかご存知だろうか。すまん「カス」と言うのである。
マスメディアの衰退は、何かあると不景気を片手に「インターネットの普及によるもの」と皆は言うが、なかれなかれ。そういった節操のない人種が跋扈し、蔓延るから衰退したのが現実だと、なぜ我を顧みぬ。したり顔で無知を誇らしげに披露させて失笑させてくれるが、全てはこれまで業界人としてツンと気取りそこに胡座をかいてきた職務の怠慢に過ぎないのだぞ。
オノレがネタが欲しいときには、下着姿を曝け出し、ねんごろ宜しく、醜態を晒して失笑を買っていることを、図太いその神経では理解できぬのだろうか。下着だぞ、下着。バカではあるまいか。オノレの容姿を誰も指摘しないのは、政治家も記者も同じと言われても仕方あるまい。
私は政治に一切の興味がない。なぜならば、努力だけで生きているからだ。不景気だのなんだのと言っても、死ぬほどの努力をしている人間は、どの時代でもしっかり輝いているぞ。
オノレは大丈夫なのか。見苦しいことを晒していないか。
彼女が叩かれたり、文春の槍玉にされたとき、さまざまな人間関係から「可哀想…」と思ってしまった自分が恥ずかしい。
ネタになればなんでも良いのだろうな。自分を叩き吊しあげた媒体に与する行為であったとしても、アホは忘れるのだろうな。
オレならば、オレのことを批判し、便乗した人間のことも媒体のことも意地でも忘れぬけどな。それがプライドであり、矜持ではないのか。忘れるのは簡単である。だが刻みつけるのだ。時の流れに抗っても刻みつけるのである。それは受けた親切だって、そうだ。
ジャニーズ叩きのボンクラどもは、事なかれ主義の極みみたいな輩で結集されており、それが今のメディアの衰退に繋がっていると、誰も分からぬところ本当は大問題なのである。
それを理解できない限り、世の中からイジメというナイーブな問題は、断言するが、なくならない。
歪んだ正義を御旗に、人や企業の名の下に文句など、誰でも言えるし、書けるし、報じることができる。
おいっ!散々、文春が大騒ぎした文京区変死事件はどこにいったのだ。3者会談で申し合わせしたように、きちっと終焉しているではないか。哀れ、元警視庁捜査一課の佐藤さんではあるまいか。
予定調和すぎて笑いも出てこないぞ。
何の疑いを持たずに、弱っている相手を叩いているマスメディアも同じである。オノレらが考える力を失い、職務を怠慢させているから、泣き言ばかりを言い訳にし、嘆きそして業界人ぶるのだ。
ジャニーズ問題も文京区も、記者会見というアングルに伸(の)るか反るかしたに過ぎない。
オレはいつだって、弱い側の人間の味方になってしまう。そこに身を置き、まかせとかんかいっ!と言ってしまう人間だ。泥を被っても、オレはそれを誉れと思っているぞ。誰に理解されなくとも、よくやったと自分ひとりだけは自分のことを理解しているぞ。
その観点からいえば、物事についてなんでもオノレの都合よく解釈ができ、それはそれ、これはこれとはならない。オレは頑張れジャニーズ!と思っているぞ。
陽が暮れるのが随分と早くなった。もう秋が近づき始めている。
オレはことの是非で生きていない。自分の人間関係のみで生きている。気がつけば、もうすぐ48だ。いつまで続く分からない人生ならば、自分の大切なものを大切にしてくれる人。大切に思う人たちの笑顔。自分が頑張ったことで人が喜んでくれれば純粋に嬉しくないか。そこで妬みなんて持てる人間が、オレは理解できない。
そうした感情をオレは大切にして最後まで生きていきたいと思っているし、見え透いた正義などオレの人生にはいらない。
すなわち人は人、他人は他人なのだ。人のために汗をかき、親切に生きようとする人間が大好きだ。損得勘定の溢れし世の中で。