仕事に変える哲学
沖田臥竜の場合、それは「生きるということを全て」だという。
我々も今一度考えてみていいはずだ。社会や人間関係の中で、自分の仕事=果たせるべき機能とは何なのかを――。
ドラマ『インフォーマ』の予告CM
生きるということを考えたとき、私の場合、人生と仕事が直結している。悪く言えばメリハリがない。効率だけで考えると最悪だろう。だが、そもそも私は仕事というものに対する概念が人とは違うのだ。一般的に雇われて働くことが、もっとも仕事をしているという体感を得られて、脳が働いているんだと反応し易いのではないだろうか。
それは、与えられ仕事をこなす、もしくは決められた場所に出勤することで、わかりやすく対価を産むからだ。
そこに仕事をしていると意識が生まれるのである。
では、対価を産まない行為は仕事と言わないのだろうか。考えるまでもない。会社を経営してみれば分かるが、必要最低限の運営資金というのが毎月かかり、どれだけ働いてもマイナスになる月や年もある。だが、経営としての概念があれば、仕事をしているという自覚はもっているはずだ。
だが私の場合は違う。冒頭でも書いたように、生きるということを全て仕事として考えているのだ。
汗を流して働くことも、人に対する親切も人助けも、食事も観る景色も、全て仕事と思って生きている。それは悪くいうと、人生にメリハリがないとなるだろう。だが、今日は休みだ、明日は残業だと、私の世界で言えば、明日の〆切にどうにか間に合わせなければならないくらいの生き方で一喜一憂していれば、底辺からここまで来ていない。バカはすぐに「計算通り」「想定内」などとしたり顔で口にするが、私に言わせるとそれは「私はバカです」と自ら宣伝しているようなものだ。
世の中とは、想定できないことがあり、それで人生が変わっていくことは、3.11やコロナ禍でも学んできたはずだ。それを「想定内」と言い切れるバカは、世の中を知らないに過ぎない。
そして、現世が情報社会と言われるようになって久しいが、情報とは所詮、先手にすぎないのである。