人さまの不倫に口を出すことの賛否論

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先日、ある作品のシナリオハンティング、いわゆるシナハンのために台湾へと行ってきた。いつもは、プロデューサーのジョニーと行っていたのだが、すまん。今回は日本に置いていってやった。
ただ、またジョニーとの日々が始まる予感がなくはない。ジョニーは拗ねていたのだろうか。それとも危機管理能力が発達してるのだろうか。台湾から何度、電話をかけてもなかなか繋がらず、ようやく帰国間際になって折り返しの電話があり、「お声が聞きとうございました〜」と笑っていやがった。幸せなヤツである。
ジョニーの話はさておき。世はゴールデンウィークが始まったようだな。ニュースを見ていると、本当に景気が悪いのかと疑ってしまいたくなるような賑わいで溢れかえっている。景気が本当に悪いのならば、休んでいる暇はないと思うのだが、さてさてである。
年末合併号に続き、ゴールデンウィーク前の合併号で、週刊文春は永野芽郁と田中圭の不倫報道をぶち込んでみせた。これには賛否両論あるようだ。記事を見て、単純に「まあひどい!」と眉間に皺を寄せるサイドと、「人の不倫や恋愛に興味なんてないわ。ほっといてやりなさいよ!」と大きく分けると二つの意見に分かれるのではないか。私もどちらかと言うと後者なのだが、果たしてだ。もしこうだったらどうだろうか。不倫を文春に刺したのが、不倫関係にあると記事になった2人の身内だったり、近しい人間だったらどうだ。それならばそこには、世間に対して、文春を使いぶち撒けてやるという意志が存在する。
そうなった場合、「また週刊誌めが!」という事ができないのではないか。だって、何かしら実生活で迷惑を被っている人が文春に限らず、意図的に持ち込んだとすれば、これは時代問わずに記事にしてきた歴史がある。
断言はできない。なぜだかわかるか。見たわけではないからだ。だが、なぜ2人で撮った写真が流出したのかなどの噂話はもちろん知っている。なぜならば、仕事だからだ。興味があるとかないとか個人的な意見なんてどうでも良い。ましてや知り合いでもないのだ。ただ節度というものがあるだけだ。
一言いえるとすれば、いつも撃ち込まれるときは、まさかと思った真後ろから撃ち込まれるのが、人の世の常である。