1を10に見せるパフォーマンス
木原事件の追及キャンペーンや元取調官による告発会見。結局、その後に残ったものとは……。
約2ヶ月だろうか。いわゆる「木原事件」をずっと頭でやっていた文春の誌面が今週になって変わった。これを見て、一般論を言えば、誰しもしたり顔で口にする言葉があるだろう。その言葉は「ネタ切れ」。
だが果たして、そうだろうか、と疑問を抱くことが本当は大切だということに大勢が気づいていない。
では、まだ木原事件に関してのタマがあったのか、と言うとそうではない。ネタなんてものは部数を気にせずに、擦り続けようと思えば、いくらでも作れるはずだ。別段、今週発売の木原事件の記事だって、頭にもってきても良かったのだ。そもそも頭に持ってくるネタとしては、せいぜい2週が限界だったのではないか。それを6週にも渡って攻め続けたのは、もちろん意地もあっただろうが、それだけではない。これでジャニーズ問題のとき同様に、社会現象を起こさせようとする引くに引けない事情もあったのだ。
それをなぜ、今週はワイドの一つの記事におさめたのか。簡単である。目には見えない裏側というものがあったからだ。その裏側とはオンラインサロンの有料会員になってくれている人ならば分かるように、文春が振り上げた拳を下ろす理由があったからだ。お陰さんで、オレは「迷宮」が話題になったので、文春さまさまであるが、取調官の元警視庁捜査一課の佐藤さんは、ヒヤヒヤしているのではないか。文春は所詮、組織である。法務案件になったとしても、個人ひとりに直撃するわけではない。
だが、佐藤さんはどうだ。例え文春が今は味方してくれ、「私たちが絶対に守ります!」と豪語してくれていたとしても、結局は個人である。文春とは一心同体ではない。佐藤さんが受ける精神的ダメージと、携わった記者が受ける葛藤は違うわけだ。それは古巣の警視庁にいたときに佐藤さんは感じていたはずではないのか。組織の中にいるからこそ、攻めもできるし、守ってももらえるのだ。
だが、その一線を超えて得たものは、果たして心からの「正義だった」と言えるだろうか。言えるというならば、それは自分でそう言い聞かせているに過ぎない。
「やっぱりやめとけば良かったかな…」と、何度も思ったはずだ。なぜならばそれが「裏切る」ということの代償なのだ。
オレが推移を見ている限り、全ては概ね予想どりだった。