吸収する生き方ー心がへこたれたときにー
そんな思いを抱きつつも、沖田臥竜は先日も、「死にたい」という言葉を繰り返す、ある有名人と対峙した。週刊誌報道がきっかけで、奈落の底に落とされた男だ。そんな彼にかけた、心からの言葉とは?

RIZIN観戦のあと、著者はある男と語り合った――。
新幹線を利用する機会が多いのだが、いくら利用しても、だいたいは駅員さんなどの顔を覚えていない。ただひとり、ワゴン販売の販売員の顔だけは覚えている。
それはいつも忘れた頃にやってくる。ワゴン販売が近づいてきたので、駅弁とお茶を買おうと振り返ったときだった。ヤツだったのである。空腹を我慢しようかと、こちらを躊躇させるぐらいヤツは態度が悪い。あいにくヤツと出くわすときは、ひとりと決まっている。同行者がいれば、ヤツと話さずとも同行者に頼んでも購入してもらうのだが、ひとりだとそうはいかない。
振り返ったときに目が合ってしまった私は、嫌々ながら、呼び止めた。なぜなのだろうか。ヤツは期待通り、イラッとさせてくれるのだ。そういう特性でも身につけているのだろうか。ヤツはワゴン販売を押す際、それを妨げるかのように、通路から足でもはみ出していようものなら、寝てる乗客を起こしてまで、バカでかい声で注意するのである。
私はそれでヤツに起こされたこともあるし、他の乗客を注意するその声の大きさで、目を覚ましたこともある。ワゴン販売の販売員でそんなヤツは、全国津々浦々探してもそうはいないだろう。そもそも、新幹線のワゴン販売員の顔をパッと頭に思い浮かべること自体が、本来ならば不可能ではないか。
先日もこの販売員から弁当を購入する機会があった。ヤツのバカでかい声を無心でやり過ごし、弁当を食べようとすると、割り箸が落ちてしまったのである。のんびりとワゴンを押しているヤツのバカでかい背中に声を掛けて、一瞬呼び止めようかと思ったのだが、不愉快になりそうなので、落ちた割り箸をおしぼりでぬぐい、ボソボソと駅弁を食べたのであった。
話は変わるが、突然、人生が一転するほどの不幸に見舞われた際、ひとはどうやって立ち直っていけば良いのか。自分に置き換えて考えてみても、答えは見つからない。例えば、週刊誌報道で奈落のそこに突き落とされる人は少なくない。人ひとりの人生を狂わせた側が悪いとは言わないが、仕事とはいえ、そういったある種、屍や怨念の上に生きていることは報じる側も忘れてはならないだろう。
少なくとも、ある映画監督は文春に女性絡みのスキャンダルが報じられたあと、夫婦間で話し合い、和解したように続報が出たが、事実は違う。そのバッシングにより、家庭は崩壊し、全て失うことになった。報じる側が悪いというのではない。少なくとも、私も記事で刺しにいくだけの理由があるときは、遠慮はしない。
ただ分別として、やるなら、金ではないところでやると考えている。ただ動き出すには、動き出すための理由が私の中でいるのだ。しれっ〜と、やっちゃいました!デヘ、みたいなことはしない。いつも向かってくれば、正々堂々と向かい合う。ただ、「それが正しいのだ」と綺麗ごとを言いたいのではない。私なりのやり方なのだ。
そりゃ小説一本で食えれば、他人に干渉などしないが、芸能人に限らず、有名スポーツ選手などでも、熱心にこちらが世話を焼いても、不愉快な対応をしてくる人間が存在する。
基本的には我慢しているが、私の場合はずっと我慢はしない。ずっとためてためて、途中でそれとなしにサインを出しながら、それでもきかなければ、相手が誰であったとしても、しっかりと言うべきことを伝えて生きてきている。それは例え有名人や力のある立場の人間であってもだ。そんなものは私の我慢には一切関係がない。そろそろずっと勘違いしている元世界チャンピオンに、私がどういう人間か教えやるときが来ていると思っている。
でもどちらかというと、私が弱いのは、理解はされにくいが、有名人を相手に気を使うよりも、困ってる人間をほっとけないのだ。それで、いつも腹を立ててりゃ世話がないのだが…。
ある話をしたいと思う。