文句を言い続けると余計に嫌いになる理論
そんな知識も得つつ、今回のコラムのテーマは「人間関係」「信頼関係」。社会の中で、自分を生かすも殺すも、他人との関係次第なわけだが、その中で沖田臥竜が最も大事にしてきたこととは何なのか?

イメージ
台風一過。お盆を過ぎると夏の終わりが近づいてきた気がして、あれだけ熱かった夏が過ぎ去っていくことに一抹の寂しさを抱いてしまう。
陽が登ったばかりの夏の朝。まだ少し涼しさを感じる中で、少年時代、近くの公園にラジオ体操に出かけたときの夏の朝の匂いは、特別なものだった。私はその匂いを嗅ぐとワクワクしていたように思う。そのラジオ体操をやっていた公園が、ドラマ「ムショぼけ」でオープニングのロケ地として使用された場所だ。
「ムショぼけ」とは、懲役用語として存在するが、本来は口に出して使う言葉ではない。例えばそれは、「ムショ」だって同じことだ。まず、刑務所のことを「ムショ」と呼ぶことはないし、出所後に「ムショぼけになっている」と言葉にすることはない。それを知らずに使っているのは、かぶれてしまったヤクザライターか初犯刑務所と呼ばれるA級の刑務所に行ってきた人間くらいだ。要するに知らないのだ。A級の刑務所にいく人間は、刑務所の用語のことはまず分からない。かぶれたライターもそうである。
間違った使い方を、実は本気で知ったかのように使っているのは、恥ずかしいことなのだ。
刑務所のことは「懲役」と言う。だが、この「懲役」には二つの意味合いがある。刑務所以外にも、受刑者のことを指すケースもあるのだ。
ゆえに、刑務所のことを「ムショ」と呼ばないのに、「ムショぼけになっている」なんてことは実際は言わない。
それをみんなが口にするようになったのは、言うまでもない。ドラマ「ムショぼけ」と小説「ムショぼけ」の功績なのだ。刑務所用語は短くすることが多く、みそ汁ならば「しる」、「ムショぼけ」ならば、「あいつ、ぼけとんな〜」が、ムショぼけの正しい使い方なのである。
ちなみに何かあると簡単に拳銃のことを知ったように、見たこともない素人が軽々しく「チャカ」と言うが、あれも恥ずかしいからやめておけ。
私たちは、弾くので「ハジキ」と呼んでいた。「道具」とも言わないこともないが、道具は武器全般に当てはまるので、ここぞと言うときは、分かりやすく「道具って、弾くほうか?」「おう、そや、ハジキや」という会話が使用される。
「姐(あね)さん」なんてことばもまず使わない。「姐(ねえ)さん」である。「兄(あに)い」や「おやっさん」という言葉もなく、兄貴分ほどの上下関係がないけれども、年上で慕っている場合は、「兄(にい)やん」か「兄(にい)」で親分クラス同士ならば、「あんちゃん」と呼ぶのだ。
また、これも誤解されているが、ヤクザ社会の男という漢字は、「俠(おとこ)」であって、漢ではない。漢を使うくらいならば、まだそのまま「男」という漢字を使っていた方が実は良いのである。
腹という漢字は「肚(はら)」なのだ。塀の中の手紙のやりとり(文通などとは言わない)は、漢字ひとつで、こいつはしっかりヤクザをやっているなと、はかられる世界である。それだけにそれを知らなければ、内心では軽んじられる世界でもあるのだ。
私がVシネマを嫌いなのは、それが全く出来ていないのに、無闇矢鱈に間違った言葉が飛び交うからだ。ただ、現役時代、嫌で嫌で仕方ない泊まり込みの当番に出向く際には、自分のモチベーションを上げるために、Vシネマを観て、イントネーションの間違った「あにき〜」や「おやぶ〜ん」を聞きながら、気持ちを保たせたものである。
さて、文京区変死事件で木原副官房長官を攻め込んだでいた文春は、遂にもう木原副官房長官が風俗に通っていた!なんてことまで記事にし出し、迷走している感がありありと伝わってくるが、悪くはないのではないか。
「なめやがって!」と週刊誌が怒ればここまでやるのだぞ!という姿は勇ましくもある。文春にしか出来なかっただろう。一度、木原副官房長官が反論したばかりに、文春はどうにかしてでもやってやるとムキになったのだ。ここまで来ると、あっぱれではないか。
それに政治家は公人中の公人である。木原副官房長官もそうだろうが、それくらいでビクビクするような線の細い人間なんて誰もいない。
人というのは一度嫌いになると、歩いている姿を見るだけでも腹が立つものである。例え、上同士で話しがついていたとしてもだ…。