メディアのカテゴリー対する違和感
既成概念を壊すような試みをすることは否定しないが、社会性が欠如した行為は看過できないだろう。そう思わざるをえないことが多すぎるのだ――。
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週刊誌がバカにされると私はひどく腹が立った。曲がりなりにも週刊誌で仕事をさせてもらっているのだ。初めて週刊誌で仕事させてもらったとき、どれだけ嬉しかったことか。
だが、文春に始まったスクープという名のもとに、突然、現れる被害者たちの声。それに群がるネット民の体質。どちらが被害者でどちらが加害者か今では正常に判断することすら極めて困難となってしまっている。
私は、文春はさすがトップに君臨するだけあって、原稿もネタもしっかりしているなと、読んでいて思っていた。現場レベルで、手ごころをくわえてもらったこともあるし、文春の記者を車に乗せて、自走で取材先を周り、協力してきたこともあった。
特段、言えないことではないが、細かなことまで言えば多分、きりがない。
こんなことは本来、当たり前の持ちつ持たれつである。本来、記者が常套句ように口にする言葉だが「こっちも人間なんで、素直に出てきてくれたら、こっちだって言い分くらいは聞きますよ」。
何様なのだ。記者は捜査員なのか。ここで言う「こっちも人間なんて」という言葉の使い方が間違っていて、本当はそれくらいのことはお互い人間なんで親切でやりますよーという関係のことを指していたはずだ。
私の中で、引っ掛かったのはジャニーズ問題。特にジャニーズサイドに対する記者会見だ。そこから果ては松本人志氏の記事化である。
確かに事件記事は鋭い。他媒体の記者が行った先には文春が既に立ち寄っているなんてことは、ザラにあることだ。特にオンラインができてからは。それに対抗するかのように、集英社オンラインが立ち上がったが、なかなか揉めてると耳にする。要は金である。
断言するが、どれだけ強引に記事化させても、紙で儲かるなんてことはあり得ないのは、そもそもの刷り部数が証明している。
ネット民はその内情も知らずに、「他人の人生を狂わせて食べるメシはうまいか!」などと批判してみせるが、批判するならば、しっかり的を射たものでなければ、体質を変えることなどできるわけがない。
痛いところをつかれてこそ、初めて相手が揺らぐのが、心理ではないだろうか。